知識はタトゥーか 思索

体にタトゥーが紋様のように彫られている裸体の画像。 思索と雑記

はじめに

「知識を覚える」という言葉は、何かをただ“積み上げる”イメージを連れてくる。でも最近、そんな感覚が少し違うように思えてきた。むしろ、知識を習得するというのは、自分の身体に“刻む”ような行為なのではないか。そう思うようになった瞬間があった。

ちょっとポエミーな思索になるが、考えを言語化していこうと思う。今形にしておかないと、きっともう全く同じ考えは頭に思い浮かばないと思うのだ。

本文

かつて私は、知識とは脳の中にしまいこむ「荷物」のようなものだと思っていた。数学の公式、英単語、法律の条文……それらを記憶して取り出せるようにすることこそが「勉強」だと。しかし、あるときふと気づいた。なぜ、同じ知識を持っていても、人によってまったく異なる使い方や理解ができるのか?

答えは、「その知識が身体にどれだけ馴染んでいるか」にあると思った。

知識は、まるでタトゥーのようだ。

浅くなぞるだけでは、すぐに消えてしまう。だが、痛みを伴いながら、深く深く彫り込んでいくことで、それは消えない紋様となって残る。自分だけの表現として、その人の在り方に刻まれていく。

しかも、ある一定の習熟を超えると、そのタトゥーの「型」さえも超えていくことができる。他の誰かが書いた模様をまねる段階から、自分自身の模様を描く段階へ。知識は、単なる蓄積から創造へと転じる。

知識のタトゥーはいわば体に刻まれた「知識の回路」である。

おわりに

知識が自分の紋様になるまで、当該分野について知識の根を深くはれば、地面の上で知識を抱えるのではなく、知識の上に立ちまだ見ぬ広い世界を見渡すことにつながるのではないでしょうか。

コメント

タイトルとURLをコピーしました